【中津にいたのか!?】民話から紐解くカッパの話

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前回のおさらい

前回は、「山の神」が農作業が始まる春に山から川をくだって里に降りて来て、農作業が終わるころに再び山に帰るという「山神交代信仰」があり、山を連想させる「猿」と川を連想させる「亀」のイメージが合わさって出来たのが「河童」という民俗学から見た河童の起源のお話をしました。

今回は民話の目線から「河童」についてお話したいと思います。

前回の記事はこちら↓

中津市耶馬渓町の河童目撃事例

今回は筑摩学芸文庫から出版されている、中村禎里著「河童の日本史」を種本にさせて頂きました。
さて、その「河童の日本史」に中津市がでてきます。

7月17日の山国川の様子、天気のいい日はスッポンが甲羅干ししています。
中津市耶馬渓町大字宮園

寛政四年(1729年)6月24日、宮園村(中津市耶馬渓町大字宮園、「雲八幡神社」がある地域)の庄屋・治右衛門さんが寄合を終えて夜半に道を歩いていました。

河童遭遇事件の現場付近にある「雲八幡宮」歴史あるありがたい神社

すると、前方より「河童」が近づいてきて、いきなり、治右衛門さんの右手を掴んできたといいます。
掴まれた手を振りほどいても、また掴んでくるといったことをしばらく繰り返した後、治右衛門さんは「河童」を取り押さえて「説諭」したとあります。

この事例は「河童に相撲を挑まれる」というよくある河童遭遇パターンの一つに分類できるとかと思います。

「雲八幡宮」境内のあちらこちらに河童の像があります

このパターンではだいたい河童に説諭後、河童から秘伝の薬の調合法を教わるとか、魚が届けられるとか、なにかしら贈り物、返礼があるものなのですが、治右衛門さんはこの後、二週間にわたり体調を崩し、この間は五穀を食べられず、真桑瓜の実を食べたそうです。
骨折り損のくたびれ儲けのなんとも気の毒なお話です。

ちなみに真桑瓜というのは、メロンとキュウリとスイカを合わせたもののようです。

このように、九州北部の筑後川流域には、河童と相撲をとって勝ち抜いたり(農民強いな)

河童を捕獲して、頭の皿が乾くまで木に縛り付けて、秘伝の薬の製法を聞き出したのち解放した話(農民恐ろしいな)など、
たくさんの目撃例や遭遇例があるようです。

「雲八幡宮」では、通称「かっぱ祭り」おんばらい大祭(7月下旬)が行われます。
「宮園楽」といわれる民俗芸能になってます。

自然が弱くなるにつれ妖怪も弱くなる

日本全国に河童にまつわる民話がありますが、多くの場合、人間側の勝利に終わってます。

河童というのは、最終的には人間側が打ち勝つ存在として考えられていて、それは、大自然を少しづつ切り開いて、人間の利用しやすい形に作り変えていった歴史を表しているのではないでしょうか。

人間が自然に対して畏怖をいだいていた頃は妖怪や鬼といった存在はただただ恐ろしいものだったのが、江戸時代頃から開発が進んがことで、人が自然に対する思いを変化させるなかで、「河童」という弱い妖怪を登場させることになったと思います。

多分、現代でも妖怪は存在すると思いますが、自然というものをまったく恐れなくなった今、人に気付かれることもなく、ひっそりと存在していることでしょう。

村の近くに住む妖怪

人の自然に対しての想いと、妖怪の力は比例するという話をしてきましたが、「河童の日本史」の中で、河童の正体について面白い説があり、自分としては一番しっくりきたので紹介します。

まず河童の目撃例、河童民話の舞台になる場所が江戸時代の平野の農村に多いということです。

田んぼというと、平野部に青々と広がる水田といったイメージを抱いていることと思いますが、平野というのは、水田に必要不可欠な水を確保するために川から長大な水路を引いてくる必要があるため、高度な土木技術を必要としました。
平野に広がる水田の多くは、江戸時代以降の開発によって開かれました。

そこで、全国各地に農業用の小川のような水路ができました。
そんな水路は夏には子ども達の絶好な遊び場となったことでしょう。
そして不幸な水難事故も起こりました。

ここで「河童の日本史」のなかで面白い話が出てきます。

みなさんは「臨死体験」というのを聞いたことがあるでしょうか?

病気やケガで生死の境をさまよっているときに、家族が泣いていて、その中心にベットに横たわる自分自身を見たという体験ですが、海に潜ってアワビやウニを採る海女さんが、低酸素の状況下で海中で自分自身の幻覚を見るという体験をすることがあるそうです。

川や水路で溺れた少年が生死の境で自分自身の幻影を水中でみる、そして救出後にこの体験を周囲に語ることにより水中で見た自分自身の幻影を河童を見たと錯覚し、これが「河童に足を引っ張られた」という話になり、同じような風景の場所に伝播していったのではないでしょうか。

どうでしょうか、いまでは川で泳ぐ子供を見かけなくなりましたが、自分が小中学生の頃は、夏休みに川で当然のように泳いでいました。

川に泳ぎに行く前に祖母から、川の特定の場所には河童がいるから泳ぐな!と言われていたことを思い出しました。
今思うと、遊泳禁止の場所は農業用水路の水の取り入れ口があり危険な箇所だったことがわかります。

自分が子供の頃には幸運にも周りで水難事故は起こりませんでしたが、過去には溺れてそのまま行方不明になった子供もいたことでしょう。
そんな子供のことを周囲の大人は「川の神に気に入られて川の底の竜宮城に行った」と言ったそうです。 

次回は「水の神に見込まれた子供」という視点から、鶴一神社について書いてみたいと思います。

歴史には諸説あり、今回ブログに載せたものとは違う解釈の仕方もあります。

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もっと歴史を知りたい!と思った方はこちらも読んでみてください!
むねキングさんの記事です↓

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この記事を書いた人

めざすは中津のインディージョーンズ!
歴史大好き野郎のむねキングです
邪馬台国は中津にあった説を提唱
「山国英彦山探検隊」の一員で英彦山のことを研究中

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