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【三角池と古代の道路】ブラック企業ならぬ古代のブラック街道 (大分中津)

むねキングさんの歴史記事スタート

中津やその周辺の歴史を知りたいと思い、むねキングさんに歴史関連の記事をお願いすることになりました!
記事はむねキングさんの視点で歴史の面白いところをピックアップしてもらいます。
歴史が苦手な方も、歴史好きな方もお楽しみください〜

みなさんはお正月をどう過ごされましたか?
お餅の食べ過ぎで自分自身が鏡餅化しつつある「むねキング」です。

さて、中津在住の方は「薦神社」に初詣に行った方もいらっしゃることと思います。
今回のお話は「薦神社」ではなくて「三角池と古代の高速道路」についてお話しようと思います。

三角池と古代道路

三角池(御澄池)“みすみいけ”とは薦神社の御神体ともいわれています。
「宇佐神宮」の御神体が三角池で刈り取られた真薦”まこも”で作られるという、ありがたい存在の池です。
そんな三角池ですが自然に出来た池ではなく、人工的に造られた池であるといわれています。

今から約1300年前、持統天皇 注1 が百人一首でおなじみの「春すぎて 夏来にけらし 白たへの 衣干すてふ 天の香具山」と詠まれた、

7世紀末から8世紀前半に大和朝廷が、中央から地方への使者の派遣や、場合によっては反乱鎮圧のための軍隊を派遣するために、全国に幅6mから10mの大規模な道路網と、「条里」とよばれる道路を基準に区画された水田と、「駅」とよばれる人と馬が利用する宿泊施設を、行橋から宇佐神宮間にも整備しました。

「駅」という漢字に「馬」がくっついてるのは、そのなごりのようです。
人と馬が利用する宿泊施設を「駅」とするなら、JRの「駅」より道の駅の「駅」のほうが本来正しい漢字の使い方かもしれませんね。

この古代の高速道路ともいえる「七道駅路」ですが、自動車もない時代に6mから10mの道幅の道路が駅から駅をほぼ直線で結ばれました。
目的地まで直進で進むなんて獅子心王リチャードⅠ世 注2 か男塾名物直進行軍 注3 くらいしか聞いたことありません。

道というのは地形に合わせて、本来曲がっているのが当たり前です。
直線の道を造るにあたって、進路上の丘は削られ、小川は埋められました。
埋められた小川の水がせき止められ、水が溜まり、池が出来ました。
そうして出来たのが「三角池」なのです。


<注1>
持統天皇(645~703)女帝、旦那さんの天武天皇とともに「大和」から「日本」に変えていった。
男神だったアマテラスが女神になったのも持統天皇の影響があるとの説もある。
<注2>
イングランド王リチャードⅠ世は食事中に敵軍接近の報告を受け「いまから私は敵に背を向けない」と宣言し城壁を破壊して出撃したという”逸話“がある。
歴代とんでもない王様を数々輩出するのがイギリス王家の伝統といえるかもしれない。
<注3>
昭和生まれのおっさんには懐かしい宮下あきら氏のマンガ「魁・男塾」にでてくる男を磨く訓練のひとつ。
棒を倒した方向にひたすら直進する、当然、進路上にある家屋は破壊される。

沖代条里

次に、古代道路を基準として水田を整備していったものを「条里」といいます。
中津市にあるのは「沖代条里」と呼ばれています。
ゆめマート中津店付近の水田と県道663号線「万田四日市線」の道が今でも当時と同じように利用され続けています。
これは全国的にも珍しいことのようです。(全国で数例)
1000年以上前に整備された水田と道路が今も使われ続けていることは、自慢していい事なのです。

一望できます!

ゆめタウンの近くです

説明もあってわかりやすい

七道駅路から勅使街道へ

先に中央から地方を支配するために道路網が整備されたことを説明しました。
ドラ〇もんのひみつ道具もない時代です(今もありませんが)誰が実際に道を造ったのでしょうか??

それは1000年以上前に中津周辺に住んでいた農民達が、秦氏“はたうじ”と呼ばれる渡来人(今の中国や朝鮮半島から渡ってきた人たち)の当時の最新技術の指導をもって、頑丈に造られました。
薦神社の三角池が今も水をたたえているのはそのおかげです。

しかし、道路網の建設や維持管理は道路付近に暮らす住民に多大な負担をおしつけることになりました。
中央から派遣される役人の出張と称した個人旅行や、地方に赴任した役人の個人的な荷物(ワイロ)を都へと運ぶ仕事、災害などで壊れた道の修理が住民を苦しめました。
ブラック企業ならぬブラック街道だったわけです。

やがて負担に耐えかねた住民の逃亡や労役を課せられる男性の減少 注4 でだんだん道はあれていきました。
バイトが次々辞めて、残った人間の負担は増えていき、社員の店長もやる気を無くして満足にシフトも組めなくなった、あれていく外食チェーン店を思い浮かべて下さい。

そして時代は中央集権体制から地方分権となり各地の道路は維持管理されなくなりました。
まっすぐだった道路も地形にあった形に自然と造り変えられていき、なかには道路そのものが放棄され、古代の高速道路は消えていったのです。
しかし、行橋から宇佐神宮に向かう道は都から勅使“ちょくし”が派遣され通る道「勅使街道」として残りました。

沖代の水田や道は造る人や整備する人を時代とともに変えながら、今も中津市に「沖代条里」「勅使街道」「三角池」として存在し続けています。

<注4>
この頃、納税や労役は主に男性に課せられていました。
男の子が生まれると性別を偽って女の子にすることもあったみたいです。
ある村では女性8割、男性2割という、ちょっと昔の商業高校のような、バランスの悪い男女比に書類上なってたところもあったみたいです。

【観光情報】「沖代条里」「三角池」へ行こう!

「沖代条里」「三角池」へ行ってみたい!興味ある!という方は、こちらの情報を参考にしてみてください。

沖代条里

〒871-0162 大分県中津市大字永添
むねキングさんがgoogleMapに情報を追加してくれました!!
むねキングさんの口コミもあり!!

この看板が目印

駐車場も2台分あります

説明があるのでわかりやすい





三角池/薦神社

〒871-0153 大分県中津市大字大貞209

今回は近江俊秀氏の「日本の古代道路」-道路は社会をどうかえたのか-角川選書を参考にさせていただきました。
歴史には諸説あり、今回ブログに載せたものとは違う解釈の仕方もあります。

もっと歴史を知りたい!と思った方はこちらも読んでみてください!
むねキングさんとなりで中津城の記事を書きました↓

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めざすは中津のインディージョーンズ、邪馬台国は中津にあった説を提唱する。 歴史大好き野郎のむねキングです。山国英彦山探検隊の一員で英彦山のことを研究中!!