どれだけ中津城のことを知ってる?
こんにちは、なりです。
今回は「中津城」のご紹介です。
中津の人はみんな知っている中津城ですが、あなたはその歴史的背景とか見どころをどれくらい知っていますか?
私は今回の取材をするまで全然知りませんでした!
この記事を読めば、何も知らない友達に中津城をドヤ顔で紹介できるようになるはず!
そして、今回の記事には耶馬渓の歴史好き「むねキングさん」にも協力していただいています。
むねキングさんの紹介
山国町出身で耶馬溪在住
古代史から世界史まで歴史大好きっ子のむねキングさん
最近は英彦山について調べています。
私だけだと歴史的なところは難しいので、むねキングさんに質問しつついきます!
【中津城の城主】誰のお城だったの?
中津城の城主(お城の主人)は全部で18人います。
その18人の名前をただ書いても面白くないので、私がへぇ〜と思った人を1人だけピックアップして深掘りしたいと思います。
その前に事前知識を少しだけ!
城主は18人ですが、4つの時代にわかれています。
最初は黒田さんが治めていた「黒田時代」
次に細川さんの「細川時代」
そして小笠原さんの「小笠原時代」
最後に奥平さんの「奥平時代」です。
治めていた期間の長さが違うのと、日本全体でみたらどの時代にあたるのかを表にまとめてみました〜
黒田時代 1587年〜1600年 (13年) | 1582年に本能寺の変で織田信長が亡くなり、その後豊臣秀吉が天下統一を果たしました。 1600年には天下分け目の関ヶ原の合戦が起こりました。 |
細川時代 1600年〜1632年 (32年) | 1603年に徳川家康が江戸幕府を開きました。 1623年には徳川家光が3代目の将軍になりました。 |
小笠原時代 1632年〜1713年 (81年) | 1641年に日本の鎖国体制が完成したといわれています。 1687年には徳川綱吉が制定した生類憐みの令が施行されました。 |
奥平時代 1717年〜1869年 (152年) | 徳川家が治めた江戸幕府のころです。 1867年の大政奉還で江戸幕府の時代が終わり、日本は明治へとかわっていきます。 |
治めた年数が違い、奥平時代が100年以上もあり長いですね!
さらに、豊臣秀吉のころから江戸時代、幕末と時代背景も異なっています。
【築城】誰が作りはじめたの?
今回は初代城主の「黒田孝高」に注目したいと思います。
「黒田孝高」というと「誰?」となるかもしれませんが、
「黒田孝高」=「黒田官兵衛」です。
岡田くんが大河ドラマで演じていましたね〜、かっこよかったです!
ではでは、黒田官兵衛についてむねキングさんに聞いていきます!
ここに黒田官兵衛って何をした人?
豊臣秀吉の軍師と言われていますが、戦国時代に軍師という役職はなく、実際のところ、豊臣ホールディングスの子会社の社長さんといったところでしょうか。
もちろん相談にのったりアドバイスをしていたことでしょう。
黒田官兵衛はなぜ中津にお城を作ったの?
豊臣秀吉の九州支配を確実なものにするために中津にお城が築かれました。
新幹線や高速道路もない時代に大阪と連絡を取り合うには瀬戸内海の船便が速くて確実でした。
中津城は海城とも呼ばれ、港に近い場所に築城されたのはそのためです。
※築城場所については、後述の中津城のポイントでなりが書いているので、そちらも見てくださいね!
中津城の特徴は?
中津城は築城当時、上からみると直角三角形で、その形状から「扇城」とよばれていました。
四角形と比べると三角形は角がひとつ少ない分、「速くて安く」築城ができる(まるで牛丼!)だったのではないでしょうか。
必要最低限の機能の中津城のプランを考えた黒田官兵衛が現代に生きていたら、必要最低限の物しか持たないミニマリストとしてIT企業の社長なんかをしていることと思います。
黒田さんは13年しか中津を治めていないけど、なぜそんなに短いの?
一番大きな理由は秀吉の死によって豊臣から徳川に政権交代が行われためです。
徳川政権樹立の戦いである「関ケ原の戦い」で官兵衛の息子長政が徳川家康に味方して、その活躍が大きかったので豊前中津から領地倍増して筑前(今の福岡)に引っ越しをしたため13年の短さになりました。
むねキングさんありがとうございます!
むねキングさんがいろんな例を出して答えてくれたので、わかりやすいです!
黒田官兵衛はすごく頭がよかったんだろうなと思いました。ムダがなさそうですね。
【中津城のポイント】どこを見ればいいの?
お城の立地
私がぜひ見てほしいポイントは2つあります。
1つ目は「お城の立地」です。
お城って山の上に建っているイメージはないでしょうか?
敵に攻められないように山の上にあるイメージです。
しかし、中津城は山の上ではなく、川のすぐ近くにあります。
なぜそこにお城を建てたのでしょう?
黒田官兵衛のそのときの状況を考えると謎が解けそうです。
築城当時は、豊臣秀吉が天下統一したとはいえ、いつ戦が始まってもおかしくないときです。
そういったときに重要になるのはなんでしょう?
兵力でしょうか?馬の数?鉄砲??
官兵衛さんは「情報」だと考えていたのでしょう。
今みたいにスマホもない時代です。
情報の伝達は人(使者)が行っていました。
時代の中心地は大阪や京都ですから、そこから陸路で中津まで行こうとするとかなり大変です。
そこで、船を使って人(使者)を運び、いち早く情報を得ていたそうです。
中津城の隣の高瀬川は周防灘(瀬戸内海)に流れ込みます。
そのため、京都や大阪から瀬戸内海を通って、中津へ船で来ていました。
中津城があるところは水上交通の重要地点でした。
さすが有名な軍師ですね!
戦は情報戦であることを知っており、いち早く情報を入手できる場所にお城を構えたのでしょう。
他にも今の場所にお城を作った理由はありますが、
情報を早く得るためという理由が軍師官兵衛って感じで、感心してしまいました〜
石垣
2つ目は「石垣」です。
石垣のここを見てください!
- 黒田時代と細川時代の区切りがハッキリ
- 当時の最先端の技術で作られた石垣
黒田時代と細川時代の区切りがハッキリ
中津城の石垣で時代の区切りがハッキリしているところがあります。
場所は、中津城の神社などがある方の反対側です。
中津城の裏と言っていいのでしょうか?
向かって右側が黒田時代に作られた石垣、左側が細川時代のものです。
石の大きさも異なりますし、石一つ一つの形も違います。
時代が変わると石垣も変わるのでしょうか?!
また、黒田時代の石垣の石ですが、上毛町の「唐原山城」からもってきた石を使っているそうです。
唐原山城は7世紀の遺跡です。
石が足りなかったのでしょうか?
7世紀(今から約1300年前)の石を使って石垣が作られて、
今もそこにあるというのは歴史ロマンを感じます〜
当時の最先端の技術で作られた石垣
もう一つ見てほしいのが、新しくできた中津歴史博物館側にある「穴太積み(あのおづみ)」の石垣です。
ここはむねキングさんに質問してみましょ〜
穴太積みとはどんなもので誰が造ったの?
こ穴太積みとは穴太衆(あのうしゅう)といわれる技術者集団が積み上げた石垣のことです。
お城というと高く積み上げられた石垣と天守閣という「暴れん坊将軍」にでてくる(例えが古いかな?!)お城をイメージしてしまいます。
しかし、戦国時代に築城されたお城のほとんどには、天守閣もなければ石垣もない、ただ山のてっぺんを平らにしただけのお城が一般的でした。
高く石垣を積む技術は全国的ではなかったようです。
そんな当時の最新技術を持っていた技術者集団が穴太衆でした。
京都の比叡山ふもと発祥の技術者が中津城の築城の際、中央(大阪などの近畿地方)から派遣され、石垣を積み上げたのでしょう。
そんな最新技術が使えたのも、官兵衛が秀吉の家臣だったからです。
他に穴太積みの石垣をもつお城がある?
代表的な例は、信長の安土城や坂本城にみられるといわれています。
穴太積みとは穴太衆が積んだ石垣のことで、穴太衆は技術者であって芸術家ではありません。
よって、石垣にサインがあるわけでもないので、はっきりとは分からないようです。
一人一人が当時の時代を生きた名もない職人さん達です。
その息づかいを中津城の石垣から感じてみて下さい。
※坂本城→滋賀県にある明智光秀のお城
今までただの石垣と思ってました、、
こんな身近にすごい石垣があるなんて知りませんでした!
当時の最先端技術が今の中津にあって、それを見ることができるってすごいですよね!!
歴史的なことを少しでも知って観光するのと、なにも知らないで観光するのとでは、全然違います。
ぜひぜひ今度中津城に遊びに行ったときは、一緒に行った人にドヤ顔でうんちくを披露してくださいね!
(私も旦那にドヤ顔しました!笑)
今回は主に黒田時代の内容でした。
中津城に関して、まだまだふれられなかったことがたくさんあります。
奥平さんとか、、今後も歴史を紹介する記事を書いていきたいと思います!
少しでも中津の歴史を知って、中津のことを好きになってもらえばと思います〜
中津城の駐車場とアクセス
中津城の駐車場は2ヵ所あります。
神社があり、表側
裏側、春はさくらがきれい
歴史には諸説あり、今回ブログに載せたものとは違う解釈の仕方もあります。
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